映画 三度目の殺人

映画、三度目の殺人を見た。かなりの良作。

あらすじは他所に譲るとして、裁判とは何か、を深く考えさせられた。劇中に出てくる裁判には、世間一般で当然求められるべき、真実や善悪が存在しない。裁判官も弁護士も検事も単なる職業であって、それぞれの立場での振る舞いが求められ、その求められる振る舞いというのは真実や善悪の追求ではなくなっている。宗教が無く、欧米の合理性を輸入して受け入れた国の悲しい現実である。

 

そうした裁判において役所広司演じる三隅は、供述が二転三転し、裁判の物語を作るのに苦慮するタイプの被告人として登場する。これに最後まで翻弄されたのが、福山雅治演じる重盛弁護士。

 

きっと三隅の犯罪には、重盛が忖度した通りのバックグラウンドがあった。三隅は広瀬すず演じる咲江の人生を守ることを第一優先に考えて、命を捨てた大勝負をした。物語の状況から考えてこれは明らかだ。重盛は言葉にしなくても、それを理解して協力した。裁判に勝つことが彼にとっては第一だったが、今回に限っては、例え裁判に負けても依頼主の要望を叶えることを決心したのだ。

 

しかし、無事裁判が重盛と三隅の思惑通りに負けた後の、重盛と三隅の最後の面会の場面。重盛は「忖度したんですわ」と三隅に言うが、三隅は「そんな美しい理由があれば素敵ですね」と否定。三隅にして見れば、この否定は嘘だと見抜けるだろ?くらいの気持ちだと思われる。しかし、これにより重盛は、自分が勝手な勘違いで三隅を死刑に追いやった可能性が拭いきれなくなった。「ただの器」という揶揄の含んだ発言がぽろっと出たのは、自分の父親が三隅に持った印象をやっと理解出来た、ということだろう。自分は三隅の人間としての志の高さを尊重して行動していたつもりだったが、それは三隅という空っぽの器を前にした自分が、自分を納得させるために盛り付けた物語に過ぎなかったのではないかと。

 

非常に後味の悪い結末だったが、この後味の悪さが今の世の中で行われている裁判の現実なのだろう。司法関係者の方々は大変だ。自分が当事者になれば、もっと仕事しろーって怒るんだろうけど。