[映画の感想]ドラゴンボール超 ブロリー
鳥山明原作の大人気アニメ「ドラゴンボール」シリーズの劇場版20作目となる記念作品で、2015~18年に放送されたテレビアニメ「ドラゴンボール超(スーパー)」を映画化。15年の劇場版「ドラゴンボールZ 復活の『F』」同様に、鳥山が自ら原作・脚本・キャラクターデザインを担当した。「力の大会」が終わり、宇宙にはまだまだ見たことのない強者がいることを知った悟空は、さらなる高みを目指して修行に明け暮れていた。そんなある日、悟空とベジータの前に、見たことがないサイヤ人のブロリーが現れる。地獄から再び舞い戻ったフリーザを巻き込み、悟空、ベジータ、ブロリーという3人のサイヤ人の壮絶な戦いが始まる。
2018年、大晦日の夜19:30から一人で鑑賞。
客は自分を含めて10人いなかった。
もちろん全員成人男性。
映画は惑星ベジータの消滅の日から始まる。
サイヤ人始まって以来の潜在能力を持った逸材として父ベジータ王から期待されるベジータ。
ベジータを超える潜在能力を恐れられ、惑星ベジータから追放されるブロリー、その息子を追って惑星ベジータを離れる父パラガス。
そして、フリーザのサイヤ人絶滅計画を察知した父バーダックにより地球へと逃がされるカカロットこと孫悟空…。
サイヤ人の父と子の関係をここまで強く前面に出してきたことは特筆に値する。
ドラゴンボール現役の視聴世代が子供を持つ年齢になったことを意識したものだろうか。
ポット(?)の中で両親と離れ不安そうな表情をする悟空に、不覚にも自分の息子のことを重ね合わせ、ジーンとした。
過去にドラゴンボールでは、バーダックが主人公のアニメオリジナルストーリーがあったが、その時のバーダックとは違い、今回の映画のバーダックはかなり家庭的だった。
時代は飛んで力の大会終了後の現代。
ブロリーとパラガスはフリーザ軍の一員として、フリーザと一緒に地球に襲来する。
ブロリーは、過去に何度も映画に出てきたが、今回の映画では初登場という設定。
バーダックにしろ、ブロリーにしろ、派生作品は無かったことにされた模様。
まあ、鳥山明が関わってないし、昔のドラゴンボールの派生作品って原作に比べて相当レベルが低かったので、私はこの選択に大賛成。
バトル中のブロリーは大猿の力を生身で体現する、という設定。
ただでさえ強いのに、悟空たちとの戦いの中で驚異的な成長を見せ、あっという間にスーパーサイヤ人ブルーすら超えていく。
戦い方は理性が無く、獣のよう。
悟空・ベジータに、ラッシュを繰り返す。
過去の映画でも同じような印象だったが、ブロリーってやっぱりキャラクターとして魅力が無いなぁと思った。
父親以外との人間と接することなく育ち、その父親からには友達になりかけたモンスターとの関係を絶たれ、挙句、制御用の首輪をつけられた。
不遇な生涯だということは分かるし、それ故に精神が子供のまま成長しなかったことの説明はつくのだが、敵役として魅力に欠けるなぁ、と。
ただ今回の映画で異なったのは、戦いの最中、悟空がブロリーに冷静さを取り戻させようとしたこと。
いつもの映画ではブロリーを倒すことしか描かれ無かったのに。
戦いは悟空とベジータがフュージョンしたゴジータにより、戦局が変わり、ブロリーは破れる。
トドメをさされる瞬間、ドラゴンボールによってブロリーは元いた辺境の星に飛ばされ、一命を取り留める。
助けたのは、映画オリジナルキャラクター。
彼らはフリーザ軍の一員で、強い戦士を探す道中、辺境の星でブロリーを見つけ、フリーザ軍に引き入れた。
しかし、地球に向かう道中でブロリーの本来の優しさを知り、その不遇な生涯に同情していた。
ラストは瞬間移動でブロリー達の元に現れた悟空が、食料と家をポイポイカプセルで与え、ブロリーとの再戦を誓うというもの。
「オラが教えられることもある」と言った台詞も興味深い。
修行をつけてやると言っているのだ。
ウーブと同じ扱いである。
ここでまた過去の作品と比較すると、かなり毛色が異なる。
これまでの映画では不遇な生涯にも関わらず、ブロリーはジェイソン的な絶対悪として描かれてきた。
一作目では四大スーパーサイヤ人の力を合わせた正義の鉄槌に滅ぼされた。
二作目では死ぬ間際に飛び散った血液を元にグロテスクなバイオブロリーという化け物として再生され、新主人公である悟飯たちに木っ端微塵に消された。
ブロリー自体には罪はない。
しかし、キレたら止まらない為、巨悪として扱われ、正義の力の前に倒される。
救いのない人生を繰り返してきた。
昔のドラゴンボール映画で今、評価されているものが無いのは、こういうところなのだ。
子供しか見ないからそれでも興行的には良かったが、その場限りの異常なプロットだったと言えよう。
それが本作では、倒すだけじゃなくまともな人間にしようというところをオチにした。
僕らも大人になったが、ドラゴンボールも大人になった。
そんなことを思った。
まあ、そうは言ってもやはりドラゴンボールはドラゴンボールで、ストーリー的には名作には程遠いのは間違いないが…。
さて、もう一つ今作で注目したのは絵作りのところ。
前回の「復活のF」ではデジタルアニメーションが多様され、最新鋭の視覚効果に驚いたものだった。
今回は大きく方針が変えられ、非戦闘シーンは、アナログなタッチが多様されていた。
昔の温かみのある絵心とでも言おうか。
昔のアニメはこの不安定な絵のせいか、たびたび作画が崩壊していたのだが、本作は崩し方に安心感があった。
きっと百戦錬磨のプロの仕業なんでしょう。
一方で、戦闘では、シーン毎に絵作りが大きく変わっていて、ごちゃごちゃに混ざってる?という印象を受けた。
まるで、過去ドラゴンボールにゆかりのある製作陣が集まったかのようであった。
ゲームの必殺技シーンを再現したようなカメラワークもあったし、「復活のF」みたいなデジタルアニメーションもあった。
何十年かぶりに映画やアニメで新作が作られ、再ブームを巻き起こしたドラゴンボールが、平成とともに終わるんだなと思った。
この総集編的な制作はそういう意味なんでしょう。
もう原作の元ネタは全部再現し切ったので、この延長では新作は出ないんだろう。
来年以降、つまり、新年号のドラゴンボールがどうなるのか?
きっとドラゴンボールは僕が死ぬまで終わらないと思う。