仕事と父親の切り替え

仕事でイライラすることがあると、家でもイライラしていることが多い。仕事には面白さややり甲斐も少しはあるが、同時に不満と不安が同居している。仕事の内容より前に、人間関係がやっぱりしんどい。あからさまに嫌味な同僚はいなくなったが、合わない奴なんてそこら中にいる。

そういう仕事のイライラを抱えながら平日を過ごすと、子供のわがままでイタズラな態度に耐えられず怒鳴ってしまう。子供を怒るたびに自分が嫌になる。家庭のために仕事をしているのに、何故自分は家庭を大事に出来ていないのだろうか、と。

本当は子供ともっと良い関係でいたいのに、仕事で理想を追っていると、どうしても子供のスピードに合わなくなってしまう。

なんとか今を変えたいなと思う。今という時代、イクメンという言葉があるくらい、父親はもっと優しい存在なんじゃないだろうか。そういう現代的な暮らしが出来るくらい、拘束時間も短く、ストレスのない仕事がしたい。が、嫁さんは許してくれないんだろうな。

 

定時で帰れる会社が儲かるなんて論理はない

getnews.jp

 

定時で帰れる会社が利益を上げると知ったようなことを言う人がいるけど、そんな事はないです。利益を上げる会社はむしろハードワーカーが多いし、定時であがれるのに利益を上げる会社の方が稀です。

そもそも顧客の要求を断ることが利益に繋がるなんていうロジックは成り立たない。要求を断ってもなおお客さんが去っていかないような優位性が必要なんです。そこが見えていないから私はこの記事の人たちに強烈な違和感を感じるのだと思う。

優位性とか差異化は残業とは何ら関係のないものだし、まして進捗管理とかとは別次元の話。この記事の中の人々は自分の会社がどうやって稼いでいるのかをまったく分かってないのだと思う。それでよく給料貰えるもんだな、と不快感しか生まれない。

 

若いうちは結構間違いやすいところなんだが、自分が楽することは業務効率化ではないからね。そんなものは会社は求めていない。

業務効率化は顧客へのアウトプットの品質は高めながら、かつ内部プロセスの無駄を省き、会社に利益をもたらすこと。効率が上がっても客対応の品質が下がるなら、それは単なる手抜き。品質と効率も上がっても、余計に金がかかるなら、無駄。

あなたが楽になることで会社は喜ばない。ここをこの記事の中の人は理解できない。始めに楽になりたいという思いがあっても、会社にとってのメリットを示せなければ絶対にそれは成功しない。つまり、会社で楽をするには、会社の論理という視点の切り替えがまず必要。自分視点でしかものを見れていない提案は実行力がない。

また、もし今の仕事が手抜きでも回るんだと思うなら、それは手を抜いてもお客さんにとっての価値が減らないから。減らない理由がお客さんにはあるから。その理由が会社にとってはものすごく重要なので、絶対に考えた方がいい。

T-BOLANのくも膜下出血

www.daily.co.jp

この記事で気になったのがくも膜下出血のくだり。

気の毒だと思うけど、病気を乗り越えようとするバイタリティは、自分にはまったくない要素なだけに、凄いと思った。

僕なら、困難に打ちのめされて、すぐに挫折してしまう。乗り越えられる壁と乗り越えられない壁がある、と思っているので。

病気の類はまさに乗り越えられない壁に該当する。僕は風邪を引いて、40度出たら、もう何を差し置いても休んでしまう。やり甲斐のある仕事だろうが、今しか出来ない仕事だろうが、ダメだ。

そんな感じなので、高度の機能障害を持ってしまったら、元に戻ろうとするよりも、諦めると思う。障害者年金で慎ましく、読書だけして生きるんだと思う。

この人がくも膜下だろうが音楽を続けようとする姿勢は本当に凄い。仕事でそういうものを持つことが出来た人生を純粋に尊敬する。

昇格したくない病

二月もあっという間に過ぎ、月末の昇格最終試験が近付いて来た。次の試験は面接。自分が会社にいかに貢献しているか、将来、会社にどう貢献していきたいか、そして立場的にチームをどう運用していくかというところも話さなければいけない。

憂鬱だ。そもそも今の時点で、社業に貢献出来ていると自信は持てないし、最近まで転職活動をしていたくらい将来像もブレブレ。チームを率いるなんて以ての外だ。昇格なんかしたくないです、が唯一、面接の場で語れる意味のある本音だろう。

しかし、自分の行動には一貫性を持たさなければならないと、そこだけ社会的な自分がいて面接を辞退することが出来ない。会社で働く人間として与えられたことはやらなければならない。そういう強迫観念が勝ち、本当に流されるように、今に至った。

本当に社会性のある人間だったら、もっと器用に生きられるはずなので、そこは社会的というよりかは、ただ自分の信念が無いために流されたのだろう。信念を持っていれば、固辞することも出来たはずが、いざ上司を前にすると、「はい、はい」といい返事をしてしまった自分が憎い。

これまでも何度同じことをやってきたのか。前の会社では自分の意志を貫いたことで、孤立し大変な目にあったので、その反動で今の自分には自分の意志というものがカケラもない。ここは大いに反省している点で、少なくとも今後の人生では自分の信念を格好悪くとも持っていたい。

しかし、これまでの練習の中で、私が話した嘘のない話は管理職の皆さんには総じて受けが悪かった。当然だ、やる気が無いのだから。後ろ向きで、仕事に対するやらされ感がある、と言われた。実際そうなのだから仕方がない。

本番に向けては、これまでに受けたフィードバックを元にそれっぽい回答を作っていかなきゃいけない、と考える自分がいる。受かりたくないのに、受かる為に頑張るって何なんだよって感じなんだが。結果、多分受かるんだろうなって気もしてる。

 

ここでラルクspirit dreams insideから。

 

それは乾いた胸に触れた

『もし叶うなら、俺を止めてよ』

take the pain away

hear me as I cry

 

 

間違った過大評価で、地位を上げ続ける自分を誰かに止めてほしい。自分の中身のなさを誰かに暴いてほしい。でないと、どんどん逃げ場が無くなる。自信という土台を持たない自分にとって高ければ高いほど、足場は不安定となり、落ちた時の代償も大きい。

だから、誰かに自分に見合った所へ落としてほしいという願いと同時に、僕はそのことを生活の中で最も恐れている。既に無傷ではいられない場所に自分がいるからだ。何とか階段を一段一段と降りるような感覚で、位置エネルギーの小さな大地まで降りたいものだ。

仕事を続けようと思う

何度もブログで書いてきたように、僕は今の仕事に対して自信が無い。出来ることは限られているし、自分の技術を活かす場がほとんどないからだ。役に立てないことがそのまま自信の無さに繋がっていた。

あまりの不甲斐なさにこのプロジェクトのこの仕事が片付いたら辞める、というところまで来ていた。実際に転職活動もしたし、面接も2社受けた。

だが、最近少し職場環境が改善されたことをきっかけに、まだやりたいことがあるんじゃないのかと思うようになってきた。

思えば、前回転職した時は、スキルを極めたが、仕事がなくて、やり甲斐を感じられなかったことに不満があった。前の会社は受注がまともに取れず、にも関わらず改善アクションに自分が関われない為、時間をひたすら浪費しているように思った。

一方で、今の会社は状況が180度異なる。スキルは未熟だが、仕事は山のようにある。この山のようにある仕事に取り組んでいけば、身につくスキルもあるだろう。経験はそのまま自信にも繋がる。

転職活動の最中のことだが、やっと自分で能動的に動いて、一つのものを完成させるという経験を初めて今の会社で行うことができた。転職活動しつつも、心は今の仕事のことばかり考えていた。本心はこんな仕事だったらもっと続けたい、と思っていた。転職条件のスキルを活用したいという思いは少しずつ揺らいでいたのだ。

正直、別の職場に写ったほうが実力を発揮できると思わなくはない。その場合は年齢的に早いに越したことはなく、今がタイムリミットだ。だが、今の会社でやれるまで頑張ってみようと思った。

会社の文化は人事制度の中にあった

私の会社の昇格試験は、筆記と面接で構成される。9月にあった筆記試験があったのだが、その結果、足切りにはならなかったらしく、次の面談試験に進むことになった。

職場での仕事の仕方に自信がないのはこのブログで何度も触れた通り。資格試験の機会を与えられることすら申し訳ないのに、さらに続くのかと気は重い。

面接を受けるにあたり、昇格後の次の職級の定義を見てみた。この会社は人事制度を明文化しており、客観的に会社の求める人物像を冊子にまとめているのだ。

それを眺めていると、何だかやっぱりこの会社って凄いな、としみじみと再発見した。今までの仕事の中で、文化と感じていたのだが、その元には人事制度があった。

今まで人事に関して僕は何も意見を持っていなかった。前いた会社の人事制度に納得がいっていなかったからだ。上っ面だけで実際は何も機能していないと感じていた。

しかし、人事ひとつでしっかり文化を作ることも出来るのだとこの冊子を見て強く思った。まったく人事制度を舐めてた。企業文化は人事制度とイコールだとすら思った。

失ったものと得たもの

技術で社会に貢献すること。これが僕にとって最も重要なことだった。僕の理想とするエンジニア像はまさにそこにあった。しかし、その夢は最初に入社した会社であっさり破られた。組織の都合と嫌味な上司によって。

そこから何度もリベンジをやった。異動願い、転職活動。重い選択を死ぬほど悩んで選んだ末、その全てがうまくいかないまま、現在に至っている。正直、僕は人生にほとほと失望している。こんなに願ったことなのに叶わないなんて。

その埋め合わせのように、僕には良いことがいくつも訪れた。家族と出世と金。その全ては僕が本来必要としていなかったものだった。埋め合わせの為だけに得られたものたちだ。でもそれらがあっても、夢が敗れた事実はずっと心に残ったまま燻っている。

今、手にしたものからすると僕はとてつもなく恵まれた人生なのだろうと思う。訪れた幸せを全て否定する気は全く無い。しかし、僕は自分の人生に全く納得できていない。六畳一間で孤独でも良いからやりたい仕事を好きなだけ出来る人生が歩みたい本当の人生だった。


一方で、同僚の自殺をきっかけに自分が望み通りのキャリアを歩んでいたらどうなっていただろうかと考えた。望み通りに仕事に生きられても、死ななければいけなかった同僚は、もしかしたらもう一人の自分だったのかも知れない。彼の最後に見た景色は、望み通りに仕事が出来たからこその絶望だったのかも知れない。彼と比較して、今、自分が生きているのはうまくいかなかったことがあったからだ。

だからと言って、やりたい仕事が出来なかったモヤモヤが消えることは無い。例え自殺することになっても、そういう人生でもよかったと正直思う。今を全否定するつもりはないが、今の自分は、全く自分の人生には似つかわしくないと思う。こんなに不完全で不器用な人間が、良い給料貰って、偉い立場になって、優しい家族に恵まれるなんて、全く似つかわしくない。