昇格したくない病

二月もあっという間に過ぎ、月末の昇格最終試験が近付いて来た。次の試験は面接。自分が会社にいかに貢献しているか、将来、会社にどう貢献していきたいか、そして立場的にチームをどう運用していくかというところも話さなければいけない。

憂鬱だ。そもそも今の時点で、社業に貢献出来ていると自信は持てないし、最近まで転職活動をしていたくらい将来像もブレブレ。チームを率いるなんて以ての外だ。昇格なんかしたくないです、が唯一、面接の場で語れる意味のある本音だろう。

しかし、自分の行動には一貫性を持たさなければならないと、そこだけ社会的な自分がいて面接を辞退することが出来ない。会社で働く人間として与えられたことはやらなければならない。そういう強迫観念が勝ち、本当に流されるように、今に至った。

本当に社会性のある人間だったら、もっと器用に生きられるはずなので、そこは社会的というよりかは、ただ自分の信念が無いために流されたのだろう。信念を持っていれば、固辞することも出来たはずが、いざ上司を前にすると、「はい、はい」といい返事をしてしまった自分が憎い。

これまでも何度同じことをやってきたのか。前の会社では自分の意志を貫いたことで、孤立し大変な目にあったので、その反動で今の自分には自分の意志というものがカケラもない。ここは大いに反省している点で、少なくとも今後の人生では自分の信念を格好悪くとも持っていたい。

しかし、これまでの練習の中で、私が話した嘘のない話は管理職の皆さんには総じて受けが悪かった。当然だ、やる気が無いのだから。後ろ向きで、仕事に対するやらされ感がある、と言われた。実際そうなのだから仕方がない。

本番に向けては、これまでに受けたフィードバックを元にそれっぽい回答を作っていかなきゃいけない、と考える自分がいる。受かりたくないのに、受かる為に頑張るって何なんだよって感じなんだが。結果、多分受かるんだろうなって気もしてる。

 

ここでラルクspirit dreams insideから。

 

それは乾いた胸に触れた

『もし叶うなら、俺を止めてよ』

take the pain away

hear me as I cry

 

 

間違った過大評価で、地位を上げ続ける自分を誰かに止めてほしい。自分の中身のなさを誰かに暴いてほしい。でないと、どんどん逃げ場が無くなる。自信という土台を持たない自分にとって高ければ高いほど、足場は不安定となり、落ちた時の代償も大きい。

だから、誰かに自分に見合った所へ落としてほしいという願いと同時に、僕はそのことを生活の中で最も恐れている。既に無傷ではいられない場所に自分がいるからだ。何とか階段を一段一段と降りるような感覚で、位置エネルギーの小さな大地まで降りたいものだ。

仕事を続けようと思う

何度もブログで書いてきたように、僕は今の仕事に対して自信が無い。出来ることは限られているし、自分の技術を活かす場がほとんどないからだ。役に立てないことがそのまま自信の無さに繋がっていた。

あまりの不甲斐なさにこのプロジェクトのこの仕事が片付いたら辞める、というところまで来ていた。実際に転職活動もしたし、面接も2社受けた。

だが、最近少し職場環境が改善されたことをきっかけに、まだやりたいことがあるんじゃないのかと思うようになってきた。

思えば、前回転職した時は、スキルを極めたが、仕事がなくて、やり甲斐を感じられなかったことに不満があった。前の会社は受注がまともに取れず、にも関わらず改善アクションに自分が関われない為、時間をひたすら浪費しているように思った。

一方で、今の会社は状況が180度異なる。スキルは未熟だが、仕事は山のようにある。この山のようにある仕事に取り組んでいけば、身につくスキルもあるだろう。経験はそのまま自信にも繋がる。

転職活動の最中のことだが、やっと自分で能動的に動いて、一つのものを完成させるという経験を初めて今の会社で行うことができた。転職活動しつつも、心は今の仕事のことばかり考えていた。本心はこんな仕事だったらもっと続けたい、と思っていた。転職条件のスキルを活用したいという思いは少しずつ揺らいでいたのだ。

正直、別の職場に写ったほうが実力を発揮できると思わなくはない。その場合は年齢的に早いに越したことはなく、今がタイムリミットだ。だが、今の会社でやれるまで頑張ってみようと思った。

会社の文化は人事制度の中にあった

私の会社の昇格試験は、筆記と面接で構成される。9月にあった筆記試験があったのだが、その結果、足切りにはならなかったらしく、次の面談試験に進むことになった。

職場での仕事の仕方に自信がないのはこのブログで何度も触れた通り。資格試験の機会を与えられることすら申し訳ないのに、さらに続くのかと気は重い。

面接を受けるにあたり、昇格後の次の職級の定義を見てみた。この会社は人事制度を明文化しており、客観的に会社の求める人物像を冊子にまとめているのだ。

それを眺めていると、何だかやっぱりこの会社って凄いな、としみじみと再発見した。今までの仕事の中で、文化と感じていたのだが、その元には人事制度があった。

今まで人事に関して僕は何も意見を持っていなかった。前いた会社の人事制度に納得がいっていなかったからだ。上っ面だけで実際は何も機能していないと感じていた。

しかし、人事ひとつでしっかり文化を作ることも出来るのだとこの冊子を見て強く思った。まったく人事制度を舐めてた。企業文化は人事制度とイコールだとすら思った。

失ったものと得たもの

技術で社会に貢献すること。これが僕にとって最も重要なことだった。僕の理想とするエンジニア像はまさにそこにあった。しかし、その夢は最初に入社した会社であっさり破られた。組織の都合と嫌味な上司によって。

そこから何度もリベンジをやった。異動願い、転職活動。重い選択を死ぬほど悩んで選んだ末、その全てがうまくいかないまま、現在に至っている。正直、僕は人生にほとほと失望している。こんなに願ったことなのに叶わないなんて。

その埋め合わせのように、僕には良いことがいくつも訪れた。家族と出世と金。その全ては僕が本来必要としていなかったものだった。埋め合わせの為だけに得られたものたちだ。でもそれらがあっても、夢が敗れた事実はずっと心に残ったまま燻っている。

今、手にしたものからすると僕はとてつもなく恵まれた人生なのだろうと思う。訪れた幸せを全て否定する気は全く無い。しかし、僕は自分の人生に全く納得できていない。六畳一間で孤独でも良いからやりたい仕事を好きなだけ出来る人生が歩みたい本当の人生だった。


一方で、同僚の自殺をきっかけに自分が望み通りのキャリアを歩んでいたらどうなっていただろうかと考えた。望み通りに仕事に生きられても、死ななければいけなかった同僚は、もしかしたらもう一人の自分だったのかも知れない。彼の最後に見た景色は、望み通りに仕事が出来たからこその絶望だったのかも知れない。彼と比較して、今、自分が生きているのはうまくいかなかったことがあったからだ。

だからと言って、やりたい仕事が出来なかったモヤモヤが消えることは無い。例え自殺することになっても、そういう人生でもよかったと正直思う。今を全否定するつもりはないが、今の自分は、全く自分の人生には似つかわしくないと思う。こんなに不完全で不器用な人間が、良い給料貰って、偉い立場になって、優しい家族に恵まれるなんて、全く似つかわしくない。

仕事は以前ほど辛くなくなった

去年の12月くらいまでは仕事を辞めたくて仕方がなかったのだが、今はその症状が大分収まっている。

変化は向こうからやってきた。まずは苦手な人が他部署に異動した。そして、そこそこ仕事に慣れ、成果を出せるようになってきた。また、周りのミスが相次ぎ、それまで私の不出来を野次ってた人も仕事のことで他人のことを言ってられなくなった。そんな感じで職場は少しずつ、私にとって過ごしやすい環境に変わっていった。

こうなってくると去年自分の書いた記事が恥ずかしく思えてくる。精神的に追い詰められると人はこうも変わってしまうのだなと思う。性格に難のある人をこれまで何人も見てきたが、そういう人達の心理も今は寛容に受け入れられ、良いところだけを見ることができる。人生の中で、私はいろんな立場に置かれる中、様々に学ぶことができた。

今も仕事を辞めたいかと言うと、さほど辞めたいとは思わない。が、今の職場での将来像は相変わらずぼんやりしている。やりたいことは朧げながらあって、それは転職前の職場でやっていた内容に近く、だから仕事内容を変えるために転職はしたいと思っている。

だが、転職先でまた同じように苦労するのかと思うと、尻込みしてしまう。人間関係や社内インフラの面で、絶対に同じような通過儀礼を味あわなければならない。折角やり過ごしたのにまたか…と思うと、自分のやりたいことなんか大した意味はないんじゃないか、このままつまらないなりに平和に過ごそうと思う自分がいる。

同僚が亡くなった

職場の同僚がなくなった。


遺書は見つかっていないものの自殺らしい。
死の理由は謎、とされている。

 

新卒以来同じ会社で、ほとんど同じ領域で経験を積んだ人物。
上からの信頼も厚く、大きなプロジェクトのリーダーも任される程。
年齢が僕と非常に近いが僕とは真逆で、キャリア形成にとことん成功していた。

 

彼とは別チームながら接点はあり、業務上のことで教えてもらうことが少しあった。
彼は当時常に忙しくてイライラしており、それを相手にぶつけてしまうタイプの人だった。
席は近いけど正直なところ、なるべく関わらないようにしていた。

 

最近は二年近く続いた超巨大プロジェクトが収束し、残業もほぼ無くなっていた。
だから、自殺原因は、過労ではないと認定された。


が、僕には彼は仕事に潰されたような気がしている。

 

自分の生活のすべてを捧げなければ成り立たないようなプロジェクト。
それが無事に終わった時、達成感よりも虚無感の方が勝るんじゃないだろうか。

 

レジ係の「やめてほしい」こと

getnews.jp

これを見て、もやもやしたのは私だけだろうか。そんな細かいことくらい文句言わず対応してくれよ、と思った。私も学生時代にレジをやっていたこともあるんで、分からなくもないんです。仕事は効率よく終わるに越したことはなくて、どんくさいお客のせいでリズムを乱したくない、と。

でも、所詮バイトの人にこんなことを言うのは酷だが、コンビニという小売組織において、この指摘は無いなと思う。理不尽な要求をしてくる客ならまだ分かるが、今回のケースはそれには全然当たらない。むしろ優良な客だと思う。こんなことを不満に思うくらいなら接客やめた方がいいと思う。こんな店員だったら無人レジの方が、客もまだ安心できる。

そもそもレジ係が単純な作業して金を稼げるようにするために、それこそ血を吐いて頑張ってる人がいるんですよ。利益率の高い商品の開発、仕入先との価格・納期交渉、店舗不動産の購入、店舗のレイアウト設計、POSシステムの構築、そして、バイトの接客マニュアルの作成。それらの仕事に付随して職場で行われている心理的な駆け引きは、コンビニ店員が日々抱える不満とは比較にならないくらい複雑で厄介だ。目の前の寡黙なお客さんを裁くだけの単純労働者のとは訳が違う。

レジ係の人の仕事があるのは、そうしたバッググラウンドを整えた人たちがいるからであって、客はそういう人たちに金を払っている。そういうことを考えるにつけ、本来客が払わなくていい金をむしり取っている寄生虫の単純作業者が甘ったれたこと言うなよ、と、私なんかは思う。