コロナ鬱3
コロナ鬱シリーズもついに3。
すっかり記憶になかったが、ゴールデンウィークあたりはめちゃくちゃ更新してたんだな、自分。
改めて読み返して見ると、今考えてることとほぼ進歩は無く、同じことをぐるぐるぐるぐる考えていたのだなぁと、感じた。
自分は精神的に窮地に追い詰められると、何か記録に残さずにはいられないらしい。
これは精神療法的にはストレス低減に効果的なので、本能的に習得したんでしょうね。
さて、シリーズ3で書きたいのは感謝の気持ち。
鬱が極まったのか、いまは死なずに生かされてる自分を支えてるものの正体について、考えらようになった。
その一番は、息子の存在である。
書いてるだけで感謝で涙が出てくる状態なのだが、息子が生まれてきてくれたこと、息子の世話をすること、息子と一緒に遊べること、その全てに感謝している。
考えてもみると、社会人としてだらしがなく、仕事では何一つ誇れるものがない自分にとって唯一の取り柄が息子の存在であり、彼のことを思う親心だと思うのだ。
そういうものを自分の人生にもたらしてくれたことに無常の感謝を感じた。
仕事のことはこれから先の未来が全く見えないし、そういう状態を招いてしまった自分の馬鹿な選択にほとほと呆れ返っている。
あまりに間抜け過ぎて誰にも相談できない。
世の中の癒し系の書物も、全ては悲運な環境について書かれたものであって、自分の愚かな行動を救ってくれる物は何もなかった。
自分の選択は、いっときの感情だったとも思えず、何度も繰り返してきた中で、これまでは運良くくぐり抜けてきたが、ついに出てしまった悪い目のようだ。
つまり、恒久的な自分の欠陥であり、救いようがない。
正そうとしてもきっと繰り返す。
自分の人間性の問題なのだ。
こんな自分が何の縁があったのか、結婚してしまい、更に授かってしまった子供。
神様がいるのなら、こんな自分に不釣合いで、間違いとしか思えないほどの幸運だったなぁと思う。
子供を産み育てることで責任を果たす、というのは人にとってハンディのようで、何も誇れるとのがない自分には生きるための浮き輪だった。
これがあるから自分はこれまで手に入れてきた色んなことを失っても、生きていけるだろう。
人生って手にしてみないと、何が良いものか分からないものですね。
てっきり、自分は仕事を生きがいにするのかと思ってた。