[読書の感想]55歳からのハローライフ
人生でもっとも恐ろしいのは、後悔とともに生きることだ。「結婚相談所」
生きてさえいれば、またいつか、空を飛ぶ夢を見られるかも知れない。「空を飛ぶ夢をもう一度」
お前には、会社時代の力関係が染みついてるんだよ。「キャンピングカー」
夫婦だからだ。何十年いっしょに暮らしてると思ってるんだ。「ペットロス」
人を、運ぶ。人を、助けながら、運ぶ。何度も、何度も、そう繰り返した。「トラベルヘルパー」
ごく普通の人々に起こるごく普通な出来ことを、リアルな筆致で描き出した村上龍の新境地
さまざまな人の老後の暮らしが描かれているのだが、思った以上に重たかった…。
健康と経済状態、孤独に揺さぶられるのがこの年代。「葉桜の季節に君を想うこと」ではむしろ活発な力強い老人が描かれていて、僕も老後は捨てたもんじゃないなと感じたものだが、全く逆の印象をこの小説では抱いた。
短編個別でいくと、「空を飛ぶ夢をもう一度」が特に重い。
生活すらままならない状況に置かれ、かつ健康も損なっている。会社のリストラで会社を追われ、派遣会社に登録し、工事現場で誘導灯を振る毎日。
貯金はほぼ無くかつ大学生の子供を養わなければならない。さらに妻はパート勤めをクビになる。
そんな時に中学の同級生のホームレスに出会う。そして、自分よりもさらに過酷な経済状態、健康状態の同級生を支えて、千葉から東京までの旅を行う。
ホームレスの周囲から向けられる視線、その視線を向けられても無様な姿しか見せられない二人。周りの目なんか気にするな、なんてのは綺麗事で、ボロボロの心身をさらに傷つける。
健康、経済的余裕、どちらかでも確保しなければ、人生はこんなにも辛い。この主人公の唯一の救いは家族に恵まれていること。妻がいるからギリギリのラインでも希望を保ち続けられていたように思う。
自分がこのような状況に陥らないようにはどうすればいいかをひたすら考えた。
今持っている資産を老後に向けて増やしていくこと、健康を維持していくこと、家族を大事にすること。やらなければならないことは山のようにある。
今、大事にしていることが将来にわたって大事なものとは言えない。その際たるものが仕事。仕事を大事にしても、残るものは金だけだ。
仕事のやりがいとは、その会社、その業界でしか意味の無いものであり、仕事を離れたら惨めな思いでしか無い。
経済的余裕、健康、家族、生きがい。僕はこれらの4軸を今の仕事からは離れて築いていきたい。
何年かぶりにネットカフェに泊まった話
何年かぶりにネットカフェに泊まった。利用したのは名古屋駅前のビッグカメラのすぐ近くの大型ネットカフェ。20代の時には長期連休のたびに使ったものだが、30中半の子持ちにして、また利用した。数年前は体力的にもう利用しないと思ったのに。
利用してみて思ったのは、予想外に快適だったこと。フラットブースというゴロンと横になれるブースを選んだのだが、普通に寝れた。シャワーは使う気になれなかったが、近くのドラッグストアで歯ブラシを買って歯を磨いたら、それなりに快適な夜を過ごせた。
加えてストレス解消にもなった。家族の痕跡の多い広い我が家よりも、狭くて一人きりという空間が思いの外、心地よかった。自分は一人が好きなのだと、つくづく思った。結婚も悪いものじゃないけど、刺激が強すぎるようだ。たまにこんな休息も楽しみたい。
驚いたのは過去と違い、今は各ブースにオープンな窓がついていたこと。これに気付かずにアダルトビデオを見まくっていた。若い女性店員はどんな気持ちでいたことやら。恥ずかしい。
あとは若い女性客が多かったことも驚いた。これは過去に泊まった際にも見かけたが、その率が増えた気がする。何かマスコミを賑わすような事件が起きるんじゃないかと思った。
自分含めて、ネットカフェに泊まる人間は、やはりどこかズレてると思うんですよね。安いことに価値を見出す人間は、高価なものに価値を見出す人間よりも、どこかがズレている。そう思います。
だから将来、ネットカフェを舞台に、性被害や爆弾テロなど色々と起こると思う。確実に。そうなったら僕ももう泊まれなくなるので、そうならないことを祈るのだが、三十数年間生きた第六感で分かる。事件は必ず起こると。
[読書の感想]殺戮にいたる病
- 作者: 我孫子武丸
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2017/10/13
- メディア: 文庫
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永遠の愛をつかみたいと男は願った―。東京の繁華街で次々と猟奇的殺人を重ねるサイコ・キラーが出現した。犯人の名前は、蒲生稔!くり返される凌辱の果ての惨殺。冒頭から身も凍るラストシーンまで恐るべき殺人者の行動と魂の軌跡をたどり、とらえようのない時代の悪夢と闇を鮮烈無比に抉る衝撃のホラー。
各所で絶賛されていた小説なのだが、途中から父親が犯人なんじゃないか?と、オチを予想出来てしまった。
例えば、家出少女から言われた「オジン」という台詞や、風俗の呼び込みで「社長さん」と声を掛けられた点。
20歳の青年にしては違和感が大きく、主人公の年齢に錯視がある予感がした。
決定的だったのは、自宅で狂気的な散々自慰をしているのにも関わらず、雅子のゴミ箱漁りではその痕跡が全く見つからなかったこと。
周りが見えなくなっている犯人の行う行動が、雅子の疑惑的な視線を交わしきれるとは到底思えない。
犯人が本当は誰なのかを考えた時に、薄い印象の人物だろうと思いあたり、それまで名前が明示されない夫のことが怪しいと思った。
しかし、真実は分かったが、この小説の叙述トリックには気づけなかった。
例えば、雅子視点で夫の名前。
夫=稔というのが、本書の根幹で緻密に隠されているのだが、それでいて「稔」という名前は何度も登場しているのだ!
文章の表現の仕方ひとつで巧妙に隠し、稔という名前が出てくる時にはそれが息子を指すかのように巧みに誘導している。
ここに最後まで気付かず、私は父親と息子が同じ名前なんだと思ってた。
こんな書き方をする小説にはこれまで出会ったことが無かったが、読み終えて見れば、これはこれで気持ちのいい騙され感だと思った。
それからラストの終わり方。
たったの三行程度の新聞記事で全ての謎を説明した後、物語はあっさりと幕を閉じる。
かっこ良すぎる小説である。
[映画の感想]ドラゴンボール超 ブロリー
鳥山明原作の大人気アニメ「ドラゴンボール」シリーズの劇場版20作目となる記念作品で、2015~18年に放送されたテレビアニメ「ドラゴンボール超(スーパー)」を映画化。15年の劇場版「ドラゴンボールZ 復活の『F』」同様に、鳥山が自ら原作・脚本・キャラクターデザインを担当した。「力の大会」が終わり、宇宙にはまだまだ見たことのない強者がいることを知った悟空は、さらなる高みを目指して修行に明け暮れていた。そんなある日、悟空とベジータの前に、見たことがないサイヤ人のブロリーが現れる。地獄から再び舞い戻ったフリーザを巻き込み、悟空、ベジータ、ブロリーという3人のサイヤ人の壮絶な戦いが始まる。
2018年、大晦日の夜19:30から一人で鑑賞。
客は自分を含めて10人いなかった。
もちろん全員成人男性。
映画は惑星ベジータの消滅の日から始まる。
サイヤ人始まって以来の潜在能力を持った逸材として父ベジータ王から期待されるベジータ。
ベジータを超える潜在能力を恐れられ、惑星ベジータから追放されるブロリー、その息子を追って惑星ベジータを離れる父パラガス。
そして、フリーザのサイヤ人絶滅計画を察知した父バーダックにより地球へと逃がされるカカロットこと孫悟空…。
サイヤ人の父と子の関係をここまで強く前面に出してきたことは特筆に値する。
ドラゴンボール現役の視聴世代が子供を持つ年齢になったことを意識したものだろうか。
ポット(?)の中で両親と離れ不安そうな表情をする悟空に、不覚にも自分の息子のことを重ね合わせ、ジーンとした。
過去にドラゴンボールでは、バーダックが主人公のアニメオリジナルストーリーがあったが、その時のバーダックとは違い、今回の映画のバーダックはかなり家庭的だった。
時代は飛んで力の大会終了後の現代。
ブロリーとパラガスはフリーザ軍の一員として、フリーザと一緒に地球に襲来する。
ブロリーは、過去に何度も映画に出てきたが、今回の映画では初登場という設定。
バーダックにしろ、ブロリーにしろ、派生作品は無かったことにされた模様。
まあ、鳥山明が関わってないし、昔のドラゴンボールの派生作品って原作に比べて相当レベルが低かったので、私はこの選択に大賛成。
バトル中のブロリーは大猿の力を生身で体現する、という設定。
ただでさえ強いのに、悟空たちとの戦いの中で驚異的な成長を見せ、あっという間にスーパーサイヤ人ブルーすら超えていく。
戦い方は理性が無く、獣のよう。
悟空・ベジータに、ラッシュを繰り返す。
過去の映画でも同じような印象だったが、ブロリーってやっぱりキャラクターとして魅力が無いなぁと思った。
父親以外との人間と接することなく育ち、その父親からには友達になりかけたモンスターとの関係を絶たれ、挙句、制御用の首輪をつけられた。
不遇な生涯だということは分かるし、それ故に精神が子供のまま成長しなかったことの説明はつくのだが、敵役として魅力に欠けるなぁ、と。
ただ今回の映画で異なったのは、戦いの最中、悟空がブロリーに冷静さを取り戻させようとしたこと。
いつもの映画ではブロリーを倒すことしか描かれ無かったのに。
戦いは悟空とベジータがフュージョンしたゴジータにより、戦局が変わり、ブロリーは破れる。
トドメをさされる瞬間、ドラゴンボールによってブロリーは元いた辺境の星に飛ばされ、一命を取り留める。
助けたのは、映画オリジナルキャラクター。
彼らはフリーザ軍の一員で、強い戦士を探す道中、辺境の星でブロリーを見つけ、フリーザ軍に引き入れた。
しかし、地球に向かう道中でブロリーの本来の優しさを知り、その不遇な生涯に同情していた。
ラストは瞬間移動でブロリー達の元に現れた悟空が、食料と家をポイポイカプセルで与え、ブロリーとの再戦を誓うというもの。
「オラが教えられることもある」と言った台詞も興味深い。
修行をつけてやると言っているのだ。
ウーブと同じ扱いである。
ここでまた過去の作品と比較すると、かなり毛色が異なる。
これまでの映画では不遇な生涯にも関わらず、ブロリーはジェイソン的な絶対悪として描かれてきた。
一作目では四大スーパーサイヤ人の力を合わせた正義の鉄槌に滅ぼされた。
二作目では死ぬ間際に飛び散った血液を元にグロテスクなバイオブロリーという化け物として再生され、新主人公である悟飯たちに木っ端微塵に消された。
ブロリー自体には罪はない。
しかし、キレたら止まらない為、巨悪として扱われ、正義の力の前に倒される。
救いのない人生を繰り返してきた。
昔のドラゴンボール映画で今、評価されているものが無いのは、こういうところなのだ。
子供しか見ないからそれでも興行的には良かったが、その場限りの異常なプロットだったと言えよう。
それが本作では、倒すだけじゃなくまともな人間にしようというところをオチにした。
僕らも大人になったが、ドラゴンボールも大人になった。
そんなことを思った。
まあ、そうは言ってもやはりドラゴンボールはドラゴンボールで、ストーリー的には名作には程遠いのは間違いないが…。
さて、もう一つ今作で注目したのは絵作りのところ。
前回の「復活のF」ではデジタルアニメーションが多様され、最新鋭の視覚効果に驚いたものだった。
今回は大きく方針が変えられ、非戦闘シーンは、アナログなタッチが多様されていた。
昔の温かみのある絵心とでも言おうか。
昔のアニメはこの不安定な絵のせいか、たびたび作画が崩壊していたのだが、本作は崩し方に安心感があった。
きっと百戦錬磨のプロの仕業なんでしょう。
一方で、戦闘では、シーン毎に絵作りが大きく変わっていて、ごちゃごちゃに混ざってる?という印象を受けた。
まるで、過去ドラゴンボールにゆかりのある製作陣が集まったかのようであった。
ゲームの必殺技シーンを再現したようなカメラワークもあったし、「復活のF」みたいなデジタルアニメーションもあった。
何十年かぶりに映画やアニメで新作が作られ、再ブームを巻き起こしたドラゴンボールが、平成とともに終わるんだなと思った。
この総集編的な制作はそういう意味なんでしょう。
もう原作の元ネタは全部再現し切ったので、この延長では新作は出ないんだろう。
来年以降、つまり、新年号のドラゴンボールがどうなるのか?
きっとドラゴンボールは僕が死ぬまで終わらないと思う。
[読書の感想] 葉桜の季節に君を想うということ
いつものようにフィットネスクラブで汗を流していた成瀬将虎は、ある日後輩の芹澤清から、彼が密かに想いを寄せる久高愛子の相談に乗ってほしいと頼まれる。愛子は、家柄の手前警察には相談しにくいので、轢き逃げに遭い亡くなった身内が悪徳商法業者・蓬莱倶楽部によって保険金詐欺に巻き込まれていた証拠を掴んで欲しいと依頼してきた。
ハードボイルドな探偵物語と、人生に傷ついた少女が愛情を通して立ち直っていく話、、かと思いきや、最終章で全ての登場人物が高齢者だったというびっくりするどんでん返しが起きる。
叙述トリックというオチは聞いていても、この返しは想像出来なかった。
あっぱれ。
劇中で伏線らしきものは沢山ある。
例えば、節子の鬱屈した話が長々と挿入されているところ。
詐欺に騙され、犯罪の片棒を担ぐ高齢者、特にそれが女性であれば、悲惨すぎてもう脇役としか見れない。
しかし、それにしても彼女視点の挿話が長い。
彼女がキーパーソンとして本筋に関わってくることは間違いないと読みながら思う。
名前を偽ったりすることから、主人公視点の物語の中に既に登場しているのかも?ともちらっと頭を掠める。
だが、こんなに年食った魅力の無い女性はいないよな、とすぐに打ち消す。
詐欺グループを裏切って主人公の企てに参戦するのかなぁと、いかにも陳腐な絡ませ方しか私には思いつかない。
それが最終章で、主人公と純愛を繰り広げてるヒロインさくらが彼女自身だと分かる。
ヒロインのさくらの年齢は私の頭の中では20代か30代前半くらいの可愛らしい女性だったから「どひゃー」っとした。
そこから主人公含め、登場人物の本当の姿(年齢)が分かっていく。
特に妹の綾は私の中ですごくチャーミングなキャラクターだったので、実年齢を知りガックリきた。
思うに、叙述トリックを利用して、高齢者への偏見を知らしめることを目的にしていたように思う。
世間は高齢者がこんなに活発だとは思っていない。
高齢者の世界とは現役世代にとって、異世界である。
それも悪い意味での異世界だ。
まず興味が無い。
街中、旅行先、電車の中、色んな場所に彼ら、彼女らはいるのだが、気にした試しがない。
おっさんが若い女性へ抱くギラギラした興味の対極にいるのが彼らだ。
同世代の成功者に抱くコンプレックス、落伍者に抱く恐怖や優越感、その対極にいるのが彼らだ。
我々にとっては、電車の中で席を譲るか否かの道徳心を試されるだけの存在、完全なる脇役である。
また、身近な高齢者については、こちらは意識的に目に入らないようにしているのではないだろうか?
例えば寝たきりの看護問題、職場にいる定年間近の口煩い老害。
負の側面のイメージが強すぎて、ハマったら最後と言わんばかりに私達は目をそらす。
あまりに正直に書きすぎたかも知れない。
世の中にはそうでない人もいるだろう。
だが、多くの人は私と同じ印象を高齢者に抱いていると思う。
叙述トリックは、そんな我々の恥ずべき既成概念を白日の下に曝す。
そして、自分も高齢者になるのだということにも思い巡らせる。
そうなった時に、この小説の登場人物たちのようにキラキラとした毎日を過ごすのだろうか?
それとも、今、自分が持っている暗い負の側面の方へ行くのだろうか…?
最後に物語の終わりに記されていた、とても勇気づけられる一文も載せて、この感想を締めたい。
知っていた言葉だけど、この小説の最後だからこそ、とてつもなく輝いて見えた。
人生の黄金時代は老いていく将来にあり、過ぎ去った若年無知の時代にあるにあらず
命をかけて手にしたはずの自由
転職した先の新しい仕事や人間関係が辛く、逃げるように再転職した今。
再転職後の仕事は、自分の強みを活かせるものであり、日々成長を感じられている。
だが、その反面、この会社の先行きは暗く、赤字が慢性化しており、苦境を抜け出せるか分からない現実がある。
入社前からわかっていたことだけど、改めて厳しい現実を目の当たりにしている。
加えて悲しかったのが、苦境をもはや諦めてしまって後ろ向きな人が多いこと。
せめて上が必死に頑張ってくれていたら救いはあるんだけど、上の人間ですら、一縷の希望も抱いていない。
ただ漫然と自分の定年までの無事を祈るだけのような、そんな雰囲気が充満している。
前の会社のことが恋しくなっている自分がよく現れる。
前の会社は本当に好きで入った会社だった。
働けることを誇りに思っていた。
利益を上げること、その為に技術を研鑽することを是としており、そこに後ろ向きな考えは許されなかった。
しかし、自分はあの会社でやっていけなかった。
自分が貢献できる強みが無かったのだ。
妻に仕事を辞めさせてまで決意した転職だった。
新天地で一から学び直すつもりだった。
だが、自分には出来なかった。
あの会社を辞めて、再転職してからというもの、家族にはずっと罪の意識を抱いている。
もっと頑張れたんじゃないか、無理すべきだったんじゃないか、もう少し頑張れば仕事にも慣れて楽になれたんじゃないか、は今になって感じること。
でもどうしようもなかったことだと思い直す。
そうやってウジウジと考え続けたこの数ヶ月。
まだこのウジウジは続いていくんだと思う。
会社が潰れるのが先か、それともウジウジが終わるのが先か。
黒字化が叶うなら、この先自分は立ち直れると思う。
だから、周りに流されず、自分だけは前向きに頑張りたい。
今年買って良かったもの
2018年今年買って良かったもの。
- glo
紙巻きタバコで咳が止まらなくなってから移行。
プルーム・テックも持ってるけど、すい終わりが感じられないのが、良くなかった。
一本吸う、という感覚があるのが、自分好みだ。
- 食洗機
家事が随分楽になった。
もう食洗機なしの生活には戻れない〜。
- かつやのカツ丼
ハマりっぱなし。
一人の時はいつも食べてます。
今年だけで何十食食べただろ。
- GUのフワフワパジャマ
あったかい。
これで冬場の夜の寒さは怖くなくなった。
- kindle paper white
iPadより電池の持ちが桁違いにいい。
書店に行く時間がないので、よく利用してる。
- オイルヒーター
あったかい。
これで冬場の夜の寒さは怖くなくなった(2回目)